96年5月号

  「新情報時代と学校事務」(その10)

コンピューターは「優秀かつ従順な秘書」

               元全事研電算化検討委員会(今回担当:渡辺斉己)


 人間が行動を起こそうとするところには必ず何らかの動機が働いているものである。では、コンピューターなどというやっかいな道具=ツールを自分に使わせている動機は一体何だろうか。私の場合、それは自分の仕事に関わって、要するにルーチンな作業事務から解放されたい、そしてデーターを正確かつ能率的に処理して仕事の信頼性を高めたいということであった。
 小・中学校の学校事務は、定数が限られているために、その職務の守備範囲が極めて広い。かといって「広く浅く」というわけにもいかず、いつ当たるともしれない監査に備えつつ、学校全体の効果的、能率的運営に努めなければならない。そのためには、単位事務の効率的な処理はもちろん、これらの多岐にわたる事務を総合的に把握する必要がでてくる。
 この点、コンピューターは私にとって、―特に、簡易プログラムの発達のお陰でそれを道具として扱えるようになってからは―情報を総合的に把握する上でこの上なく”有能かつ従順な秘書”というべき存在となった。それは、もしこの道具=ツールがなかったならば、果たして自分は今日までこの仕事を続けることができたであろうかと思えるほどである。
 というわけで、私のコンピューターの定義は、”パソコンは有能かつ従順な秘書”というものだが、これを秘書あるいは道具として自由に使いこなすためには、これに命令を与える言葉=コマンドをマスターしなければならない。従って、今後は、こうした言葉=コマンドの修得とともに、これらの言葉の「標準語」化を図る必要が出てくるだろう。
 ところで、ビル・ゲイツは、こうしたコンピューターの道具としての意義を、テクノロジーの観点とコミュニケーションの観点から理解すべきことを主張しているが、以上私が体験してきたことは、コンピューターのテクノロジー面の活用ということになる。また、今年に入って爆発的に普及しているインターネットなどはいうまでもなくコミュニケーションとしての活用である。
 学事MLは、このコンピューターの後者の面における活用が、私たちの仕事の改善にどのように役立つかを実験的に試みているものであり、そこにはいくつかの反省点はあるにしろ、他のコミュニケーション手段によっては得られない成果も出てきており、今回はそこで得られた情報等を生かしながら、私なりに「新情報化時代の学校事務」のあり方について考えてみたいと思う。


学校事務における「情報管理」の意義

 本連載の第2回目に、神戸の木村信哉氏が「新情報時代の位置づけと認識」と題して、「新情報時代」における学校事務のあり方について一定の整理をしておられる。氏は、事務職員とコンピューターのつきあいを「コンピューターへの動機」として語っており、まず、その大量、高速、正確なデーター処理能力が「時間的な効果(=節約)」をもたらした点を評価している。
 その上で、こうしたコンピューターの活用を単に「時間を浮かすために使うというのではなく、もっと(学校運営にとって)直接的な道具としての利用が望まれる」「数字は、個々バラバラであっては、単なる要素に過ぎないけれど、操作する側が意義付けをする事によって有意義なデーターとなる。」として、こうした流れを、「計算処理からデーター処理へ」という言葉でいい表している。
 私自身は、こうした流れをデーター処理の量や種類の拡大というばかりでなくそのシステム化、総合化の流れとして捉えている。それによって従来単位事務ごとに分断され全体的な意味を見失いがちであった事務を総合的に把握することができるようになったのである。ここにおいて学校事務は単なる事務処理から総合的な「情報管理」へと質的転換を遂げることとなった。
 こうした学校事務の質的転換は、今回の宮崎における「21世紀をめざす学校事務開発事業」の成果に如何なく現れている。それは、県教委からこの事業推進における「学校事務改善案」作成の研究委託を受けたとき私たちが設定した研究テーマが「高度情報化時代の学校経営を担う事務管理・運営システムの開発研究」であったことにもすでに現れていた。
 つまり、この事業を通して私たちがめざしたものは、事務職員の職務を単なる事務処理から、それを学校運営上の総合的な「情報管理」の地位に高めるということであった。結果的には、今回新たに制定された「市(町村)立小中学校事務処理規程」において、情報、文書、公印の取り扱いに関する事務が事務主任の総括的責任を負うべき事務の範囲として定められた。
 また、これらの規定は、それぞれ、その事務の具体的な処理要領を定めた規定を伴っており、そこにおいて事務主任は、「情報取扱基準」において「情報取扱主任」、「文書取扱要領」において「文書取扱主任」、「公印取扱要領」において「公印取扱主任」として明確な職指定がなされたのである。もちろん、これらの基準、要領は学校運営の実態に合うよう徹底した吟味がなされた。
 また、こうした事務職員の「情報管理」における統括的責任者としての地位を名実伴うものとするためには、先に述べたように、個々バラバラに処理してきた事務を出来るだけ総合的かつシステマティックに処理して、その全体を統括できるようにしなければならない。そのために全県的な事務の標準化とそれを効率的かつ総合的に処理するパソコンシステムの開発が取り組まれた。
 現在、先に紹介した「市(町村)立学校事務処理規程」は、県内のほとんどの市町村において制定され、その周知徹底と定着化の努力がなされている。しかし、事務職員自身の自らの職務に対する考え方の切り替えが未だ不十分なことや、事務用パソコンの全校配置がいまだ完了していないなどの事情もあって、こうした「情報管理」の意義が十分認識されるには至っていない。
 しかし、本県の県立学校の場合は、「21事業」における同様の取り組みの中で、ハード面やソフト面の整備も小中学校より格段に進んでいることから、こうした「情報管理」の考え方が着実に定着化しているようである。こうした流れは、現在進行中の県立学校と市町村立学校間の人事交流の活発化によって一層進展して行くであろうと思われる。

文書管理は「情報管理」の基本

 このような、「情報管理」という考え方の定着化を図っていく上で最も重要な仕事が、実は文書管理なのである。私たちはこのことの重要性を「文書取扱主任」や「公印取扱主任」という職の指定がなされ、学校運営組織上その意志決定に関わる発信文書の全てが、事務主任の「公印審査」という手続きを経て発信されるようになったことによってそれを実感できるようになった。
 従来、文書管理事務といえば、文書規定はあるにしてもはっきりした法的根拠がなかったり、そもそも文書決裁の前提としてある「起案」の考え方が学校には定着していないなどの問題点によって、単なる文書受付事務に終わりがちであった。このため、文書管理という仕事は、毎年確実に増加する文書量にあえぎながらその表題等を件名簿に転記するだけのルーチンと化していたのである。
 こうした学校現場の実態が、どれほど、事務職員の仕事を学校運営の全体的な流れから疎外してきたか、いやその疎外状況が逆に事務職員をして学校運営における文書管理の意義、ひいては「情報管理」という考え方の成熟を自ら否定する挙に就かせたか、その実態は、本誌1996年3月号の「文書取扱主任はどんな仕事をしているか」という特集記事を見るとよくわかる。
 とりわけ東京都板橋区立弥生小学校の白井吉宗氏などは、氏自身の「区立学校文書管理規定」の形骸化の取り組みの中で、「学校に発生する文書のほぼ100%が事案登録(文書カード)の対象外になった。解釈の判断は『各学校長の判断に任され』、『同一文書が各校マチマチになってもかまわない』確認までなされて、完全な”ザル規定”」となったことを成果としている。
 確かに、こうした事務職員の職務に密接に関わる事務の見直しが、区や校長及び教頭の代表だけで審議され決定される手続きにも問題はあるが、学校という組織体のその意志決定過程を明らかにしそれを記録保管することが、「ただ文書の回議で上位下達の意志決定をする行政の縦系列のシステム」であり「学校自治」になじまないと一笑に伏せるであろうか。
 それでいて氏は、「いま、『閉鎖的』といわれた学校を積極的に外に開こうという機運が、ようやく全国各地で芽を吹き始めている。学校事務職員の中からも、学校情報を父母、地域、子どもに提供する実践が広がっている」として、事務室の「情報センター」としての機能を高く評価し、学校事務職員の立場から教育に関する様々な情報を提供する必要性を語っているのである。
 私にいわせれば、では氏の進めておられる「学校自治」とは何なのか、そこにおける意志決定過程はどうあるべきなのか、とりわけ事務職員は、学校情報の取り扱いにおいてどのような責任を負うべきなのか。氏は「要は文書規定の整備云々ではない」「情報公開を文書レベルの問題として考えること自体が『はんこ行政』の悪しき名残」というが、「文書」が情報でないとどうしていえるか。
 本県における先に述べた「文書取扱要領」においては、起案の対象となる文書を校長名で対外的に発信する文書のみとしたほか、決裁伺書の様式もできるだけ学校運営の実態に合うよう簡略化し、かつ、軽易な文書については簡易決済処理ができるようにした。また、パソコンによる文書管理システムの開発によってこれらのシステムのトータルな管理ができるようにした。
 本校では、決裁伺書によって処理すべき発信文書は、受付の段階で決裁伺書を上記のシステムで印刷添付し、担当職員に回付することとしている。従ってこれによって職員の事務負担が増えるなどということはないし、起案文書を関係者と合議のうえ教頭に回議すれば、校長の決裁に回された後本人にその文書が帰ってくる。その後公印取扱主任(事務主任)による所定の審査を経た後公印が捺印され発送される。
 実際にはこうした決済手続きを経て作成される文書の大半は管理系職員の処理する文書であり、教員の作成にかかる文書は、調査統計などごく僅かしかない。従って、こうした手続きを踏むことによって大きく変わった点は、実は、事務職員の文書事務そのものであって、従来、単独で処理し「駆け込み決済」してきたものが、関係者との協議などの手続きを経て決裁にまわされることが義務づけられたということなのである。
 それは、自分の体験に照らして言えば、白井氏が危惧されるような「行政の縦系列の管理統制」などというものとは違って、かえって民主的かつ合理的といえるものであり、教員にも上手に説明すれば十分納得の得られるものである。とりわけ、私印による決済と公印の押印との意義の区別が明確にされ、公印の押印が事務室において処理されるようになったことは事務職員にとって大きな改善である。
 つまり、事務主任が「公印取扱主任」とされたことによって、学校から校長名で対外的に発信される文書の全ては、必ず事務主任による公印審査を受けることになるから、事務主任は、市町村職員の作成する文書や保健給食関係の文書、さらに教務関係の文書にも必ず目を通すことになるわけで、学校全体の事務の流れを文書事務を通して全体的に把握することができるようになったのである。
 戸惑いは、ここに生ずる。というのは、これらの文書を作成した職員が、なぜ、公印取扱主任たる事務職員の審査を受けないと公印の押印が出来ないのか、つまり文書の発送が出来ないかということなのである。しかし、私たちは、「公印取扱」は基本的に文書取扱主任の職務であり、文書取扱主任は当然「学校事務をつかさどる」べき事務職員の職務であると考えた。
 こうして、校務処理上の文書の取り扱いを含む「情報管理」という仕事が事務職員の職務として認定されることになったのである。しかし、そうはいっても現段階においては、そうした制度的条件整備が整ったというだけであって、ハードの整備も十分でなく、それを名実伴うものとするためには、事務職員の「情報取扱主任」「文書取扱主任」として今後一層の自己研鑽が求められている。

「学事ML」の可能性

 まず、「学事ML」という技術も手間もかかる大変な試みを辛抱強く続けた、旧電算化検討委員の皆さんにお礼を申し上げておきたい。特に、自ら管理者を化って出られた本川氏には、一体どんな生活をなさっておられるのか、一見、自由人風の風貌の中にどうしてあれだけの”ボランティア精神”が宿っているのか驚きというより不思議な思いがした。
 私はとえば、送られてくるメールの余りの多さに、生来の”無精”がたたって、しばしば、”知らんぷり”を決め込んだが、あとで、これがいわゆるネチケットに反する行為だと知り、誠に申し訳なくお詫びを申し上げる次第です。ただ、MLという通信方法については、扱うテーマをはっきり決めて、話題が散漫にならないようにすることが必要ではないかと思う。
 ところで、こうしたコンピューターを使ったコミュニケーションによって、密度の高い情報交換が、距離に関係なく、短時間かつ安価に行えるようになったという事は本当に驚くべき事である。もちろん、人間の持ってる時間は限られているから、いくら多様な情報が手にいるといっても限度があり、本気でそれを行おうとすると、事前のフィルタリングが必要になる。
 だが、こうした情報収集におけるフィルタリングはその人が自主的にやるものであって他人が一方的にかけるものではないから、その意味においてインターネットというのは、立花隆氏との対談の中でビル・ゲイツがいっているように「支配されることの最も少ない媒体」であり、そこで交わされる自由な「コミュニケーションが民主主義を守る」といえるであろう。
 こうした自由なコミュニケーション手段を事務職員が自らの職務にどう利用できるかという事については、これも木村信哉氏が本誌12月号に、神戸市のインターネットを利用した災害対策用通信システム「次世代システム」について、自らの阪神大震災の経験を交えながら、切実な問題指摘を行っている。
 「機械はどんなに高価なものでも、高度なものでも設置されることに価値があるわけではない。人間がその機械やシステムを有効に活用するところに真価がある。ネットワークもそうであろう。その基本は、機械やシステムではなく、構成する人の価値観だといえると思う。」その価値観がコミュニケーションの道具=ツールとしての機械を使いこなすのである。
 この場合、こうしたコミュニケーションの道具としてのコンピューターを使いこなす時の条件について木村氏は、「パソコン通信やインターネット等の新しいメディアでのネットワークは、・・・『双方向性』を忘れては成り立たない」として、それが「単に行政にとっての情報収集の道具であった」ということにならないよう注意を促している。
 ところで、私は先に、学校内における「情報管理」という考え方について、「21事業」の成果を中心に、それが事務職員の重要な職務の中心となりつつある状況について述べたが、こうした学校を越えた通信ネットワークが構築された場合における事務職員の役割についても、「情報管理」上の何らかの責任を負うべき時代がやってくるのではないかと思う。
 どちらかといえば、一つのことに集中することのほうが好きな自分としては、おっくうな気もしないではないが、コミュニケーションというものの自由性、自発性、双方向性という基本的性格に照らしていえば、そうした基本的性格を損なわないためにも、それぞれのネットワークの目的に合致した適切な「システム管理」が必要となってくるのではないだろうか。

自由なコミュニケーションに討論に付したい学校事務のいくつかの疑問

 抽象的な議論で少し息が詰まったから、最後に、学事MLなどの自由な意見交換の場を利用して提起したいと思う学校事務に関する疑問点をいくつか提起して本稿を終わりたいと思う。私は現在「学校経営」の枠組みについて、そこにおける事務職員の役割や職能形成のあり方について、いくつかの問題提起をしているが、このような現場で感じた疑問について考えることが、膠着状態に陥っている問題の解決のヒントになると思うのである。

1 出勤簿は本当に必要?
 この疑問は「学事ML」でも論議されているが、私自身も年来この不必要を唱えている一人である。なぜこんな「情報化」の時代に学校にこれが化石のように生き残っているのか。自治体によっては、出勤印=私印は押さず休暇等のゴム印のみ押すところが少なからずあるようだが、学校においてはどうなのだろうか。出勤簿は単に休暇処理簿等による本人の申請内容を転記したものに過ぎないのではないか。
 確かに、これはコンピューター等が発達していない時代においては、職員の勤務関係を一覧し統計処理するために便利な帳簿であったのかもしれないが、休暇関係や義務面、研修、週休関係など全て本人の申請書類によって認定がなされているのだし、それをデーターベース化して統計処理をすれば、出勤印のないだけの出勤簿はすぐにプリントアウトできるからである。
 出勤印を捺させないと職員が遅刻しても解らないとかいう学校現場があるのだろうか。私は、小中学校しか知らないが、職朝というものがあってその事実は分かるし、また、それがなかったとしても意図的に出勤時間を偽る職員がいるとも思われない。であるとすれば、出勤簿は二重帳簿的正確が濃厚であるから、学校教育法施行規則第15条3項の規定は改正すべきと思うのだが・・・。

2 主任手当はなぜ日額支給?
 ご存知の通り、主任手当は日額200円支給、本県では一時間以上勤務すれば手当て支給の対象としている。なぜこれが5000円定額支給とならず、日額となっているかは、おそらく、制度発足当時の主任制度反対闘争の影響で、これを中間管理職でなくあくまで連絡・調整役として、それを同一人に固定化せず、その手当も勤務実績に基づくものとしたためであろう。
 まあ、たいした事務でもないわけだが、これを実績主義で支給することに取り立てて意義があるとも思えない。日教組も最近主任制度を認めたというから、この機会に定額にしたらどうか。近年の行政改革論議は市民オンブズマンの活躍もあって、実態に基づかない制度の改善を怠った事による不正の摘発が相次いでいるが、よけいな事務をなくすことも行政改革の一つでは・・・。

3 教育委員会の規則制定権はなんのため?
 教育行政が一般行政に組み込まれていることに異議を申し立てているわけではないが、それにしても、一般行政に適用される事務処理手続きと、学校に適用されるそれとは、その主管する事業の性格に応じて合理化を図るべきではないか。そのためにこそ教育委員会の規則制定権が認められていると思うがどうか。
 国立学校の場合は、国立学校特別会計制度の下にあって、一般自治体の財務会計規則よりよほど現実的な運用が可能となっているようだが、どうも地方自治体の場合は”事務のための事務”としかいえないような些末な規定が多すぎるような気がする。監査のための事務に追われて肝心の学校運営全体の能率化・効率化を考える余裕がないというのでは本末転倒だと思うがいかがか・・・。

4 市町村事務職員の任用はいまのままでよいか?
 これも、年来私が主張してきたことだが、あえて、本稿の締めくくりとして提起しておく。昨年度から、地方交付税の基準財政需要額の積算基礎として上げられていた学校勤務の市町村事務職員の「職名」が「事務補助員」から「事務職員」に変わったという。つまり「職名」上は県費負担事務職員と同格になったのであるから、この際、政令都市は別として県への任用替えを図り定数に組み入れるべきではないか。
 というのは、宮崎のように「事務主任」制度が発足し、事務処理上の責任体制が明確に規定されるようになると、市町村事務職員との職務上の関係が、固定化されてしまうことになるからである。従来は、この関係をあいまいにごまかしてきたが、制度化されるとなるとそうはいかない。悪くすると引き上げとなる可能性が大だから、この問題は小中学校における事務スタッフの問題として正面から提起していく必要があると思う等々・・・。


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